少しだけ遠出をしよう。

 そう言って私の元を訪れたあの人は、私が頷くより先に歩き出す。慌てて追いかけると、満足そうに微笑まれた。

 

 どこへ行くの?

 

 尋ねる私に微笑みだけを返して、あの人はゆうゆうと歩く。

 チリリ、と。この心に走る複雑な感情は、果たして嬉しいのか悔しいのかはたまた悲しいのか。相変わらず感情というものは難しいものだ。自分でも自分の気持ちはよく分からないけれど、あの人の横顔と同じように自然と頬が緩んだのを自覚した。

 

 広い、広い、この世界は、自分とあの人だけで完結し、あの人はいつものように微笑んでいる。いつも通りの■■の日。

 よかった、と思う。心の底から。あの人が苦しそうに顔を歪めることも寂しそうに顔を曇らせることもなく、今日という日を迎えてくれたことを。私もまた、同じ顔ができていることを。

 

 あの人の歩みはあまり速くない。そうは言っても、彼の歩幅が小さいわけでは決してない。彼が順調に歩を進める間、私は少しだけ小走りでついていくくらいにはあの人の一歩は大きいのだ。

 それでも、彼の歩みを速くないと評せるのは、彼が露にぬれた草木を見ては足を止め、オアシスに群生する小さい花を見ては座り込んで、暫くその景色を楽しむからだ。

 私は、彼の横で彼の視線の先を見るのが好きだった。

 

 あの人は些細なものにこそ目を向けた。私だけでは気づけないような細やかなものに目を向ける彼の視線を追って垣間見る世界は、ひどく美しかった。

 幾度も繰り返すはずの空や季節の移ろいも、陰鬱なはずの雨だれも、そよと吹く風やそれが運ぶ真水の匂いさえ、なんてことはない一瞬一瞬の景色が、光が、音が、匂いが、あの人の視線を追えば幾度繰り返しても同じものは何一つとして見当たらなかった。世界は新鮮で広く、美しく輝いて見えた。

 

 ふと気がついて辺りを見回すと、太陽が緩やかに傾いて空を赤く染め上げかけていた。

 結局行き先は教えてもらっていないけれど、だんだん確信を帯びてきた私の予想が当たっているのなら、あと少し急がなければならないだろう。どんなに名残惜しくてももう寄り道をする時間はもう残っていない。

 

 私は彼の手を取って歩き出す。私よりずっとずっと大きな手だ。この手に撫でられるのが好きだった。かしゃらんと小さな音をたてたのは華奢な銀細工の腕輪。精緻な細工がとても綺麗な腕輪は、友人と交換したのだと子守唄がわりに聞かせてくれたのは、いつのことだったか。

 

 ざくざくと砂の上を歩く音だけが聞こえる時間が長らく続き……──ようやく目的の場所が見えた頃、太陽は最後の煌めきを残して地平の向こうへと姿を消した。

 視界の端で風がいたずらに揺らしたあの人の髪が、その煌めきを反射してちかりと、麦穂色を弾く。世界が飲み込まれた夜の真ん中で、私はそっと目を閉じた。

 

 砂漠の夜は寒い。頬を撫でてゆくのはもう夜の風で、するりと吹き抜けて体温を奪っていった。

 頬を撫でられて瞼を開けるとあの人が変な顔で笑っていた。困ったような寂しいような、それでいてとても面白そうな顔。青白い月光がささやかにその顔を照らしている。

 不可解に思って沈黙で返した私にあの人がよこしたのは片耳だけの耳環だった。花のような幾何学模様をあしらった金の細工からのびる飾り紐。それは、いつもあの人の耳で揺れていた耳環。

 

 これを渡される意味は、今日この場に足を運んだ意味と一緒に考えれば、理解はできる。本当はわかりたくなんてないのだけれど。

 別れはいつか必ず来ると知識では知っている。いつか必ず来る別れのことをぼんやりと想像して、必ず来るとわかっているのだからそこまで怖かったり悲しかったりはしないはずで、それでもきっととっても残念に思うのだろうと呑気に考えていた過去の自分を少しだけ、恨んだ。

 

 見上げれば、いつもと同じようにあの人が私の頭を撫ぜる。大好きな大きな優しい手だ。

 

 「ありがとう、ございました」

 思わず口をついて出たのは感謝の言葉。一瞬、きょとんとした顔をされたので完全な正解ではなかったようだが、おかしそうに笑ってくれたので失敗ではないはずだと思いたい。

 

 「待っているよ」

 もう一度頭を撫でられて。

 ぱちり。次に目を瞬いたわずかな間で、彼の姿は消えた。

 

 さらさら。さらさら。

 風に飛ばされて足元の砂が流れていく。

 続いていた足跡を消すくらいの間、私は立ち止まっていたが、いつまでもそうしているわけにはいかなかった。

 私はもらった耳飾りを握りしめて、進行方向に向かって歩き出した。目的地はもう目と鼻の先だ。


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